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第二章 陽の歌声

Author: 海野雫
last update Last Updated: 2025-10-03 19:00:09

 藤堂晴真から逃げてから、三日が経った。

 響は大学に来ても、音楽棟には近づかなかった。講義に出て、すぐに帰る。図書館にも行かない。学食にも行かない。ただ、人目につかないよう、影のように大学内を移動する日々が続いた。

 だが、逃げ切れるはずがなかった。

「おーい、そこの!」

 講義棟の廊下で、明るい声が響いた。振り返ると、藤堂が手を振りながら駆け寄ってくる。周囲の学生たちが一斉に藤堂に視線を向ける。彼はそれだけ目立つ存在だった。華やかなオーラを纏い、笑顔が太陽のように周囲を照らす。

 響は足を速めた。逃げないと。心臓が早鐘のように打つ。

「待ってよ! なんで逃げるんだよ!」

 藤堂は響に追いつき、その前に立ちはだかった。息を切らせながらも、笑顔を絶やさない。

「お前、この三日間ずっと逃げてるよな。俺、なんか悪いことした?」

「……別に」

「じゃあ、話そうぜ。五分でいいから」

「用はない」

 響は藤堂の横を通り過ぎようとした。だが藤堂は諦めなかった。

「お前の名前、まだ教えてもらってないんだけど」

「……」

「俺は藤堂晴真。声楽科の三年。で、お前は?」

 藤堂の目は真剣だった。冗談をいっているようには思えない。周囲の視線が気になって、響は小さく答えた。

「……篠原響」

「響か。いい名前だな」

 藤堂はにっこり笑った。

「音が響くって書くんだろ? ぴったりじゃん」

「……うるさい」

 響は再び歩き出した。だが藤堂はついてくる。廊下を歩く学生たちが、二人を見ている。その視線が、針のように響の背中に突き刺さる。

「なあ、響。俺、本気なんだ。お前の曲を歌いたい」

「無理だっていってるだろ」

「なんで? 理由を教えてくれよ」

 響は立ち止まり、藤堂を睨んだ。胸の奥で何かが渦巻く。苛立ちか、恐怖か、それとも――。

「関係ない。俺の曲は、誰にも聴かせない。そう決めてる」

「でも、俺はもう聴いちゃったぜ」

 藤堂は困ったように笑った。

「あの曲、忘れられないんだ。毎日頭の中で鳴ってる」

 響は言葉を失った。藤堂の声には、嘘がなかった。その真摯さが、むしろ怖かった。

「頼むよ。一回でいいから、ちゃんと話させてくれ。お前の時間は取らせない。ただ、俺の気持ちを聞いてほしい」

 響は迷った。この男は、なぜそこまでするのだろう。普通なら、もう諦めているはずだ。なぜ、こんなにも執拗に追いかけてくるのか。

「……今は無理」

「じゃあ、いつなら?」

「わからない」

「そっか」藤堂は残念そうに頷いた。「でも、諦めないからな。俺、しつこいんだ」

 そういって、藤堂は手を振って去っていった。その背中を見送りながら、響は胸の奥に妙な感覚を覚えた。

 それは、苛立ちだろうか。それとも――期待だろうか。

 自分でも、答えはわからなかった。

 *

 翌日、響は学食でひとり昼食を取っていた。

 隅の席に座り、カレーライスを黙々と食べる。昼時の学食は人で溢れ、笑い声や食器の音が響いていた。周囲の学生たちは、恋の話やバイトの話、週末の予定について楽しそうに談笑している。それは、響には無縁の世界だった。

「ここ、いい?」

 突然、目の前に人影が立った。顔を上げると、藤堂が笑顔でトレイを持っていた。ハンバーグ定食の湯気が立ち上っている。

「……他に席があるだろ」

「いや、お前と話したいから」

 藤堂は勝手に座り、ハンバーグ定食を広げた。向かいの席から、藤堂の明るいオーラが波のように押し寄せてくる。

「なあ、お前って作曲科だろ? 何年?」

「……二年」

「そっか。俺は三年。先輩だな」

 藤堂は箸を動かしながら、楽しそうに話し続ける。

 響はカレーを口に運びながら、相槌も打たない。沈黙で拒絶しているつもりだった。だが藤堂は、響の無言など気にした様子もない。

「俺、ライブハウスで歌ってるんだ。週に一回くらい。よかったら観に来てくれよ」

「興味ない」

「まあまあ、そういわずにさ」

 藤堂は懐からチケットを取り出した。

「これ、今週の金曜日。無料だから、気軽に来てよ」

 響はチケットを見ようともしなかった。視線をカレーに落としたまま、スプーンを動かす。

「行かない」

「なんで? 予定あるの?」

「……別に」

「それなら、ぜひ来てほしい。俺の歌を聴いてもらいたいんだ」

 藤堂の声のトーンが、変わった。響は思わず顔を上げる。

 藤堂の目が、真剣になっていた。

「お前の曲を聴いたあと、俺、自分の歌が変わった気がするんだ。もっと深く、もっと心を込めて歌えるようになった。だから、俺がどんな歌を歌うのか、見てほしい」

 響は藤堂を見つめた。彼の瞳には、純粋な情熱が宿っていた。計算も、嘘も、そこにはない。ただ、音楽への真摯な想いだけがある。

「……考えとく」

「マジで!?」

 藤堂は目を輝かせた。

「ありがとう! 絶対来てくれよな!」

 響はカレーを食べ終え、トレイを持って席を立った。藤堂は「また明日!」と手を振った。その笑顔は、まるで子供のように無邪気だった。

 響は食器を返却口に置きながら、小さくため息をついた。

 ――この男、本当にしつこい。

 だが、悪い気はしなかった。むしろ、胸の奥に小さな温もりが灯るのを感じた。それが何なのか、響にはまだわからなかった。

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  • 響きあうカデンツァ   第四章 理解者の声

     ライブから三日後、響は大学の音楽理論の講義を受けていた。 教授の声が遠くに響く。黒板には複雑な和声進行が書かれているが、響には内容が頭に入ってこない。チョークが黒板を叩く音だけが、妙に大きく感じられる。 藤堂の歌声が、まだ耳に残っている。 あの夜、藤堂は響の音楽を守った。笑った観客に怒りをぶつけ、響の曲の美しさを訴えた。そして、観客たちは最終的に拍手を送った。 ――本当に、自分の音楽は受け入れられたのだろうか。 それとも、藤堂の力だっただけなのだろうか。 響は自信が持てなかった。心の奥底に、まだ疑念が残っている。 講義が終わり、響は荷物をまとめた。周囲の学生たちが立ち上がり、教室が雑踏に包まれる。その時、隣の席に座っていた女子学生が声をかけてきた。「篠原くん、少し話せる?」 振り返ると、ピアノ科の佐伯美咲が微笑んでいた。長い黒髪を後ろで結び、清楚な雰囲気を纏う彼女は、響と同じ二年生だった。いつも静かに講義を受けている姿を見かけるが、話したことはほとんどない。「……何?」「お茶、付き合ってくれない? 話したいことがあるの」 美咲の声は穏やかだが、その目には強い意志が宿っていた。 響は戸惑った。美咲とは同じクラスだが、これまで言葉を交わしたのは数えるほどしかない。だが、断る理由も見つからなかった。「……いいけど」「ありがとう。じゃあ、学内のカフェで」 二人は講義棟を出て、学内カフェへ向かった。初夏の陽射しが眩しい。カフェは昼休みの学生たちで賑わっており、談笑する声や笑い声、食器の音が響いている。響は人混みを避けるようにして、窓際の隅の席に腰を下ろした。 美咲はコーヒーを二つ持ってきて、響の前に座った。カップから立ち上る湯気が、二人の間で揺れていた。「実はね」 美咲は穏やかな笑みを浮かべた。「金曜日、藤堂くんのライブに行ったの」 響の心臓が跳ねた。手のひらが、じんわりと汗ばむ。「『ひとりの夜に』、とても素敵だったわ」

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  • 響きあうカデンツァ   2-4

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  • 響きあうカデンツァ   2-3

     ライブ後、響は会場の外で藤堂を待った。他の観客たちが次々と帰っていく中、響はビルの前でじっと立っていた。夜風が頬を撫で、遠くから酔客の笑い声が聞こえてくる。初夏の夜は心地よく、街路樹の葉が風に揺れている。 しばらくして、藤堂が出てきた。汗を拭きながら、響を見つけると満面の笑みを浮かべた。「響! 来てくれてたんだな!」「……ああ」「どうだった?」 藤堂は期待に満ちた目で響を見つめた。まるで、子供が親に褒めてもらいたがるような、純粋な期待。響は少し迷ったあと、小さく頷いた。「……よかった」「マジで!?」 藤堂はうれしそうに響の肩を叩いた。「ありがとう! なんか、本当に歌った甲斐があった」「……最後の曲」 響は顔を逸らしながらいった。「あれ、よかった」「だろ? あれ、お前のために選んだんだ」 響は驚いて藤堂を見た。藤堂は照れくさそうに頭を掻いた。「お前の曲を聴いたら、自然とああいう雰囲気の歌を歌いたくなったんだ。お前にこの想いが届いていたら、うれしい。伝わったかな?」 響の胸が、また熱くなった。こんなふうに、誰かが自分のために何かをしてくれたことなんて、これまでなかった。家族以外で、自分のことを考えてくれる人がいるなんて、思いもしなかった。「……あの歌声なら」 響は小さく呟いた。「俺の曲も、歌えるかもしれない」 藤堂の目が大きく見開かれた。数秒の沈黙のあと、彼は興奮した様子で響の手を握った。その手は温かく、力強かった。「本当か!?」「……条件がある」「なんでも聞く!」 響は藤堂を真っすぐ見つめた。夜の街灯が、二人の顔を照らしている。「俺の曲を笑わないこと。気持ち悪いとか、暗いとか、そういうことをいわないこと」「当たり前

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